1896(明治29)年8月27日(戸籍上は8月1日)、賢治はここ宮沢家の長男として生まれた。実際は、母の実家でお産したため、産湯をつかったのはここからほど近い母の実家である。賢治の生家は質・古着商を営んでいたが、賢治晩年に建築資材を扱う宮沢商会へと転業し、それも昭和20年8月10日の空襲で全焼した。現在の建物は戦後に建てられたもので、賢治の弟清六氏の遺族が住んでいる。
当時の地図に位置(①)を示しましたので、こちらの地図をご参照ください。
賢治の生誕日
賢治の生誕年月日は戸籍簿には明治29(1896)年8月1日出生となっており、また、花巻農学校へ提出した賢治自筆の履歴書にもそのように記載されている。しかし、現在は父母の記憶による前後の事情から8月27日出生が定説になっている。
当時の戸籍登録はそれほど厳密ではなく、かなり日にちを経たあとからの届け出もまれではなかったといわれる。賢治の場合にも、出生前後の地震災害の混乱、父政次郎の出張などが重なり後日誤った日付けで届け出されたと推定されている。
誕生日が見直されたことについては、賢治作品が世に広まり、全集等が普及するようになって正確な年譜が求められるようになった事情があったようで、昭和25年に小倉豊文が父母の記憶をもとに8月27日説を発表した。賢治没後から十数年も経ており、誕生からではすでに50年以上も経ったあとである。
燻蒸された原稿
賢治の死後、『春と修羅』の原稿は行方がわからず、清六氏は長い間探していたようだ。昭和20年8月10日、宮沢家は空襲による火災で焼失した。手当たり次第に物を運んだが賢治関係の大部分の本や肉筆の書画などは間に合わなかった。幸い人命に被害はなく、土蔵だけが焼け残った。この土蔵からは数十冊の法華経と一緒に、何年も探していた『春と修羅』の校正に用いた原稿が「全くひょっこり」出てきたという。燻蒸され、一部は焼失し、また水を掛けられた状態であったが、インクの色もセピアに変わって、そんなひどい火事場から出て来たのであったと伝えられている。
高村光太郎の疎開
終戦3ヶ月前の昭和20年5月16日、高村光太郎は東京の自宅・アトリエを焼失し花巻の宮沢家へ疎開した。花巻へ着いた翌日に急性肺炎と診断され1ヶ月ほどこの家の離れで療養した。その後、8月10日の花巻空襲で宮沢家が焼失するまで滞在し、佐藤昌宅及び佐藤隆房宅の離れでの一時寄寓を経て太田山口に小屋を建て移転した。
下の平面図は宮沢家および宮沢商会の平面図で、ご覧のとおりかなり奥行きがあった。小屋のある区域に光太郎が起居した離れがあったと思われる。現在は区画整理により宮沢家の敷地は道路で寸断され、当時の面影はない。