花巻農学校の前身で、1921(大正10)年4月に郡立農蚕講習所から郡立稗貫農学校に改編され、その年の12月に賢治は教師として勤めた。生徒が2学年で僅か60人余という小さな学校で、隣に県立の花巻高等女学校があり、規模・建物も貧弱のためクワっこ大学とあだ名された。賢治はこのような環境にある学校の生徒に自信を持たせようと、「精神歌」や応援歌をつくり、芝居を企画するなど教員の立場から奮闘していた。この学校は1923(大正12)年4月には県立に移管され、岩手県立花巻農学校と校名を変えて校舎も移転した。
 当時の地図に学校の位置(⑥)を示したので、こちらの地図をご参照ください。

稗貫農学校跡
学校跡地に建つ花巻病院建物
右の写真と同じ方向から写す
稗貫農学校校舎
平屋の農学校校舎
写真右側の建物の横を軽便鉄道の線路が走っていた

 右の写真は、賢治が奉職した年の学年の卒業記念のもので、稗貫農学校としても第1回目の卒業式であった。写真には半数程度しか入っていないが生徒も少数で、敷地も下の図のように手狭で、県立への移管と移転、新校舎の建設が切望されていた。
 この校舎移転後の敷地には佐藤隆房が院長の花巻病院が整備された。佐藤隆房は晩年病床にあった賢治の治療にあたったほか、賢治没後に建立された「雨ニモマケズ」詩碑の建設委員長も務めた。

稗貫農学校第1回卒業記念(大正11年3月)
小原忠作成稗貫農学校平面部

精神歌

「精神歌」完成記念 前に座っているのは賢治同僚の堀籠文之進、左後は作曲した川村悟郎

 農学校教師就任直後に親友の保阪嘉内宛に出した手紙で、賢治は「学校で文芸・芝居を主張してけむたがられて居ります。授業がまずいので生徒にいやがられて」いることなどを伝えている。しかし張り切って教師の道を歩み始めたことは窺える。
 その延長線上において、賢治は農学校の生徒のために精神歌や応援歌をつくり生徒と一緒に歌い出した。隣接する県立高等女学校の規模や建物と比べて農学校が余りにも見劣りすることや、クワっこ大学とからかわれていることを知った賢治は、生徒に自信や元気をつけさせようとして先ず「精神歌」を作詞した。作曲は同僚の堀籠文之進に紹介された川村悟郎に依頼し、3人で訂正しながらつくりあげた。
 北海道に修学旅行した際には札幌の通りを応援歌を歌いながら行進したことが、生徒の思い出として語られいる。賢治作の精神歌、応援歌は今でも学校で歌い継がれている。
 また、精神歌のメロディーは毎朝夕の7時に花巻市役所屋上のスピーカーから流されていて、市民の時鐘として親しまれている。