旧花巻町は、花巻城址を堺に北側は花巻町、南側は花巻川口町に行政的には分離しており、それぞれに小学校もあった。賢治は生家豊沢町が属する花巻川口町の花巻川口尋常高等小学校に入学した。賢治在学中の明治38年12月(賢治3年生)に、それまで分散していた校舎を統合して新校舎が建設され、校名も花城尋常高等小学校と改められた。ところが新築翌年の2月に新校舎が焼失してしまい、さらにその翌年の明治41年に再建された(※註)。現在は花巻市役所庁舎や体育館が建つ。下の絵ハガキに描かれた校舎はその時のもの。
〔※註 これまで「賢治在学中の明治39年2月(賢治3年生)に新築したばかりの校舎を焼失した。翌明治40年、新校舎の建設を見、校名も花城尋常高等小学校と改められ新校舎に移転した」と記したものを上記のように訂正する。2021年11月25日記〕
 小学校時代の賢治は、「国語綴方帳」や「よーさん」と題された作文など残された資料や成績表から、教科が得意だったと窺われるほか、童話や物語を好み、また「石コ賢さん」と呼ばれるほど石を集め、昆虫、植物採集に夢中になるなど、自然とも触れ合っていた生活をおくった。小学校を優秀な成績で卒業し、この後盛岡の中学校に進学する。
 当時の地図に小学校の位置(④)を示しましので、こちらの地図をご参照ください。

宮沢賢治ゆかりの地
小学校跡(現在は市役所駐車場、体育館)
花城小学校
明治41年築花城小学校校舎

 右の絵ハガキは、賢治の農学校教師時代の教え子の照井謹二郎氏の遺品から見つかったもので、ご子息の義彦氏から影像をご提供いただいた。「花城小学校 開校式記念 41・11・28」のスタンプが押されており、新築当時の校舎の色合いなどが分かり、上の写真と見比べてみて興味深い。

花城小学校絵葉書