宮沢賢治は花巻農学校教師時代、学校の実習用水田の担当だった。灌漑施設が十分でなかった当時、水田への水の確保は農家にとっては死活問題であり、農学校といえども例外扱いはなかった。農学校の田んぼへの水は、学校の西北1kmほどにある「田日土井」から分水しており、賢治は実際「夜水引キ」に通っていたと教え子が証言している。この時に体験した農民同士の我田引水の争いを「喜劇 夜水引キ」という脚本にも書き残している(新校本全集第13巻下・創作メモ)。
 碑は、「田日土井」のあった場所に、1996(平成8)年賢治の生誕百年を記念して、かつてこの地に青年教師宮沢賢治が足跡を印した証として建立された。

碑文

 碑文は、1925(大正14)年6月12日の日付をもつ「渇水と座禅」(「春と修羅 第二集」所収)である。大正13、14年は「ヒデリ」で、賢治は水引きのため「田日土井」に通って農家との調整にあたっていた。このときの様子を心象スケッチしたと思われる。

  二五八  渇水と座禅
       一九二五、六、一二、
にごって泡だつ苗代の水に
一ぴきのぶりき色した鷺の影が
ぼんやりとして移行しながら
夜どほしの蛙の声のまゝ
ねむくわびしい朝間になった
さうして今日も雨はふらず
みんなはあっちにもこっちにも
植ゑたばかりの田のくろを
じっとうごかず座ってゐて
めいめい同じ公案を
ここで二昼夜商量する……
栗の木の下の青いくらがり
ころころ鳴らす樋の上に
出羽三山の碑をしょって
水下ひと目に見渡しながら
遅れた稲の活着の日数
分蘖の日数出穂の時期を
二たび三たび計算すれば
石はつめたく
わづかな雲の縞が冴えて
西の岩鐘一列くもる

「春と修羅 第二集」所収