岩手公園(現在の呼称は盛岡城址公園)は南部藩主の城跡で盛岡の街の中心部にあり市民の憩いの場である。賢治が通った盛岡中学も当時はこの近くにあり、また、賢治が高等農林最終学年には弟清六や従弟たちと下宿した下ノ橋の玉井郷方家もすぐ近くであった。この公園内にその名も「岩手公園」という賢治の文語詩の碑が建っている。

岩手公園の賢治詩碑「岩手公園」

     岩手公園

「かなた」と老いしタピングは/杖をはるかにゆびさせど/東はるかに散乱の/さびしき銀は声もなし

なみなす丘はぼうぼうと/青きりんごの色に暮れ/大学生のタピングは/口笛軽く吹きにけり

老いたるミセスタッピング/「去年(こぞ)なが姉はこゝにして/中学生の一組に/花のことばを教へしか。」

孤光燈(アークライト)にめくるめき/羽虫の群のあつまりつ/川と銀行木のみどり/まちはしづかにたそがるゝ

 タピングは、米国人で盛岡のパプテスト教会で牧師をつとめたヘンリー・タッピングで、賢治は教会でタッピングの聖書講座を聴講したことがある。息子の「大学生のタピング」、夫人の「ミセスタッピング」と家族も登場し、散歩中にでもここで出会ったか。

弟清六の回想

 大正6年4月下宿を始めたばかりの弟清六宛に、公園から眺めた街の景観を認めた手紙を賢治からもらったことを清六がのちに回想しているが、次のように書かれていたという。

「君が下の橋の近くで、私と一しょに下宿することになって、そこから中学校に通学出来るといふことは実にいいことだ。玉井さんの家から下の橋の方に歩いて見給え。そこの教会に向って左に曲がれば「作人館」である。その学校の裏の広場に出れば、君はそこで岩手公園の美しい石垣を見るだろう。その石垣の蔦の立派なことは、どんな季節でも、いつまで見てもあきることはないだろう。(中略)若しも君が、夕方岩手公園のグランドの上の、高い石垣に立って、アークライトの光の下で、青く暮れて行く山々や、若葉でかざられた中津川の方をながめたなら、ほんたうの盛岡の美しい早春がわかるだろう。」

 

岩手公園(盛岡城址公園)の石垣