三陸海岸北部の北三陸に宮沢賢治の一連の詩碑が沿岸沿いの市町村に建つ。その一番北の普代村堀内漁港のまついそ公園に文語詩「敗れし少年の歌へる」の碑がある。
花巻農学校教師時代の賢治が、1925(大正14)年1月5日夜に三陸海岸に向けて花巻を発ち、翌朝早く北三陸に着いた際、「三四三 暁穹への嫉妬」(「春と修羅 第二集」)を書いたとされる。普代村・まついそ公園の詩碑の碑文は、この詩を文語に改作したもので、賢治の三陸紀行における一連の詩のうち、北三陸で最初に書いた詩を文語詩に改作したものを碑文として選んでいる。
北三陸に朝早く着いた賢治は久慈方面へ南下し、野田村下安家で一泊した。翌日1月6日、田野畑村平井賀漁港(下安家から南方へ直線距離で16km)から船に乗り宮古に向かったとされていたが、宿から最寄りの安家、堀内、もしくは大田名部のいずれかから乗った可能性が高いとの説が出て、堀内、大田名部のある普代村では堀内漁港に碑を建立した。東日本大震災の津波では、近くの建物が流失する中、この碑は流されずに残った。
敗れし少年の歌へる
ひかりわななくあけぞらに
清麗サファイアのさまなして
きみにたぐへるかの惑星の
いま融け行くぞかなしけれ
雪をかぶれるばくしんや
百の海岬いま明けて
あをうなばらは万葉の
古きしらべにひかれるを
(以上、碑面より)
……(以下略)
文語詩未定稿より
安家 寒キ宿
賢治の残した「文語詩ノート」に「14年 1925 一月 九戸郡行 安家 寒キ宿ノ娘」と記述があり、北三陸を旅した際に、安家の旅館に泊まったときの体験が記されていると思われる。安家で現在も旅館を営む小野旅館がその場所と推定されている。
この「寒キ宿」に一泊後、翌日賢治は、炭と塩の積み出し港として盛んであった最寄りの安家、堀内、大田名部(安家から直線距離で7km先)のいずれかから船に乗って宮古に向かったと推定される。