心象スケッチ『春と修羅』の最終章《風景とオルゴール》に1923(大正12)年10月28日の日付をもつ「一本木野」と「鎔岩流」がある。農学校教師時代の賢治は日曜日のこの日、岩手山麓を跋渉した。

 岩手山は有史以来たびたび火山活動を繰り返し、1732(亨保16)年の噴火の際、東側の小火口より流出した溶岩流を「焼走り熔岩流」と称している。恐らく赤熱した溶岩流が急激な速度で流下したのを当時の人が目撃してかく命名したものといわれる。火口は山腹にあり、長さは約4千m、巾は一様ではないが下流の方ほど次第に広く、末端部では約1千mほどある。溶岩は多孔質で暗黒色しており、大きさは拳大から数mあるものが雑然と堆積している。

   鎔岩流
喪神のしろいかがみが
薬師火口のいただきにかかり
日かげになった火山礫堆(れきたい)の中腹から
畏るべくかなしむべき砕塊熔岩(ブロックレーバ)の黒
わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから
なにかあかるい曠原風の情調を
ばらばらにするやうなひどいけしきが
展かれるとはおもつてゐた
けれどもここは空気も深い淵になつてゐて
ごく強力な鬼神たちの棲みかだ
一ぴきの鳥さへ見えない
…(以下略)…

心象スケッチ『春と修羅』より
焼走り熔岩流に向き合うように建つ「鎔岩流」の碑

 心象スケッチ「鎔岩流」を書いた2年後の1925(大正14)年5月にも1泊(野宿)2日で岩手山麓を縦断している。このとき同行した森惣一(森荘已池)は「賢治と小岩井駅から歩き出し、溶岩流を越えて大更駅に出たことがありました。」(『宮沢賢治の肖像』)と記している。この時の逍遥をスケッチしたのが「春谷仰臥」「国立公園候補地に関する意見」(「春と修羅 第二集」所収)の二つの作品。二人は前日の夜、小岩井駅に降り立ち、野宿しながら夜通し歩き、柳沢神社、溶岩流を経て大更駅に向かった。