義理を欠いてまで
1925(大正14)年1月5日夜、花巻農学校教師の賢治は「みんなに義理を欠いてまで」の気持ちを抱きながら、花巻駅から汽車に乗って北三陸海岸へ旅立ちました。旅立つ前、おそらく農学校でこの日の日付けをもつ「三三八 異途への出発」を書いたと思われます。夜行列車を乗り継ぎ、八戸廻りで太平洋岸に出、朝早く北三陸に着いたと推定されます。
三三八 異途への出発
「春と修羅 第二集」
一九二五、一、五
月の惑みと
巨きな雪の盤とのなかに
あてなくひとり下り立てば
あしもとは軋り
寒冷でまっくろな空虚は
がらんと額に臨んでゐる
……楽手たちは蒼ざめて死に
嬰児は水いろのもやにうまれた……
尖った青い燐光が
いちめんそこらの雪を縫って
せはしく浮いたり沈んだり
しんしんと風を集積する
……ああアカシヤの黒い列……
みんなに義理をかいてまで
こんや旅だつこのみちも
じつはたゞしいものでなく
誰のためにもならないのだと
いままでにしろわかってゐて
それでどうにもならないのだ
……底びかりする水晶天の
一ひら白い裂罅のあと……
雪が一そうまたたいて
そこらの海よりさびしくする
「春と修羅 第二集」や「口語詩稿」には、この詩を筆頭に1月9日付の「三五八 峠」まで海岸沿いの情景を描いた詩が続きます。賢治は1月5日から9日まで、北三陸から海岸沿いに南下し釜石まで船や徒歩で旅行しました。このときの一連の詩作品が、三陸海岸沿いに碑になって建立されています。そのなかには、先の東日本大震災の津波で一時行方不明になったものや、奇跡的に傷つきながらも流されずに踏ん張ったものなどもあり、建立者の篤い思いが伝わってくるようです。ここでは、これらの詩碑を中心に三陸海岸の賢治ゆかり地をご案内します。
北三陸紀行中の詩作品
- 1925(大正14)年1月5日 「三三八 異途への出発」(「春と修羅 第二集」)
- 1925(大正14)年1月6日 「三四三 暁穹への嫉妬」(「春と修羅 第二集」)
- 1925(大正14)年1月8日 「三五一 発動機船」〔断片〕(「春と修羅 第二集」)
- 「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」(「春と修羅 詩稿補遺」)
- 1925(大正14)年1月8日 「三五六 旅程幻想」(「春と修羅 第二集」)
- 1925(大正14)年1月9日 「三五八 峠」(「春と修羅 第二集」)