賢治は盛岡に住んでいた中学と高等農林の学生時代に、たびたび盛岡の北山にある願教寺の島地大等の講義を聴き、同じ北山の報恩寺では参禅した。座右の書とした『漢和対照 妙法蓮華経』は島地大等が編集したもので、のち「法華文学の創作」に繋がる法華経との出会いはこの時代である。
また、盛岡中学の最終学年(5年生)の4月からは、学校の寄宿舎から(寮生の舎監排斥運動により退寮を命ぜられ)ここ北山にある清養院に下宿し、5月の北海道修学旅行後には徳玄寺に移った。さらに、盛岡高農受験を目指し浪人中の1915(大正4)年1月に教浄寺(時宗)に下宿して受験勉強に打ち込んだ。
報恩寺
年譜に、盛岡中学5年(1913、大正2年)の年の9月、曹洞宗報恩寺の尾崎文英について参禅し、青々と剃って丸坊主になるとある。尾崎文英はこの年の3月より報恩寺の住職となり、岩手仏教振興会団長を務め、のち札幌中央寺へ転じた。学識も深く、態度も堂々としていて、いわゆる口八丁手八丁の活動家であったらしく豪放な人物であったが、行動が粗雑で盛岡では巨大なニセ坊主という評判であったという。
願教寺
賢治が生涯愛読していた『漢和対照妙法蓮華経』を編集した島地大等が住職をしていた浄土真宗の寺。大等はこの寺の島地黙雷次女の入夫であって、黙雷の跡を継いだ。大等は常にこの寺に居たわけではないが、夏には恒例の夏期仏教講座を開き、盛岡高農の教授や仏教青年会の学生なども多くその聴講生であり賢治も参加した。白藤慈秀は大等の弟子でもあった。
島地大等
明治35年島地黙雷(明治25年より願教寺住職)の次女篤子と結婚、願教寺に入寺。大谷光瑞の命によりインド仏教調査、帰国後比叡山、高野山で仏教を研究。天台学の第一人者として東京帝国大学ほかで講じる。26世願寺住職。著書多数。
本堂の
高座に島地大等の
ひとみに映る
黄なる薄明
この短歌は、賢治が願教寺において島地大等の講話を聴いた際に詠んだものとおもわれる。
寺にはこの歌碑が建てられている。