1915(大正4)年4月、宮沢賢治は盛岡高等農林学校農学科第二部に入学した。盛岡高等農林学校は、東北農業の開発を目的として、1903(明治36年)に開校した日本で最初の農業専門学校。修業年限は3年、農学科(第一部・第二部)、林学科、獣医学科があった。賢治が受験した農学科第二部の志望者は36名で、合格者は13名。口頭試問の際、志望の理由を訊かれ、「良い米を沢山とれるようにして国民生活を安定させたい。それにはどうすればよいのか。その事を勉強したいから」と答えたという。4月16日、第一講堂で第13回入学生の宣誓式が行われ、賢治は入学生総代となり宣誓文を朗読した。
 賢治は2年生まで同校敷地内の寄宿舎自啓寮で起居した(3年次は盛岡市内に弟清六らと下宿)。大正7年3月卒業後は研究生及び実験指導補助という職で翌年8月まで同校に所属し、稗貫郡からの依頼による地質調査に従事した。
 当時の木造2階建ての本館が資料館として保存、公開されている。

保存公開されている盛岡高等農林学校本館
盛岡高等農林学校俯瞰図 中央の2階建てが本館、この建物以外はほとんど残っていない 
バックに見えるのは岩手山
化学実験室でのスナップ 後方に小さく写っているのが賢治

 農学科第二部主任教授関豊太郎は賢治の思い出として「同氏は私の専門とする地質土性に趣味を持ち、幾回となく私と一緒に見学旅行をした。その途中での雑話で、私は同氏が一種の哲人であることを知ったのである。」と残している。関教授は気難しい人で、クラスを代表して対応できるのは賢治ぐらいであったようだ。卒業後は関教授の下で地質調査に従事した。