花巻温泉
下の写真は大正12年に開業した当時の花巻温泉を写したもので、上方左の建物は屋内遊園地、その隣が屋外遊園地と動物園、手前の平屋の建物は貸別荘である。岡村民夫著『イーハトーブ温泉学』(みすず書房、2008年)によると、貸別荘と貸別荘の間にある花壇は賢治設計の「対称花壇」で、この写真から外れているが「日時計花壇」や「三角花壇」もあったという。賢治が花巻農学校の教師をしていた頃から羅須地人協会時代のことである。
こちらの写真は花巻温泉の全景をとらえたもので、上の写真の遊園地が右端に見える。遊園地前の道路を手前奥(左)に行くと徒歩10分ほどで台温泉に至る。道路を挟んで温泉施設と貸別荘棟が見え、山(堂ヶ沢山)の麓に松雲閣が建つ。この松雲閣の並びで山の麓に整備された斜面が見えるが、花巻温泉は、冬季スキー場地の南斜面の緩傾斜地に花壇の整備を企画し賢治に設計を依頼した。
花巻温泉の開業間もない昭和2年4月の岩手日報に「花巻温泉に鈴らん 姫神山から移植する」という記事があり、次のように伝えている。
花巻温泉に鈴らん 姫神山から移植する
岩手日報昭和2年4月13日付
花巻温泉では千秋閣の後ろのスキー場に鈴欄を植え、四季の草花を配し、曲折する小径をたどって1周できるよう作業中であり、元花巻農学校教諭宮沢賢治氏の設計である。
花巻温泉には稗貫農学校時代の教え子冨手一が園芸主任として勤めており、賢治も冨手一と一緒に施工にも従事した。この時の冨手一宛の手紙と設計図が残されており、その手紙で「南斜花壇とでもご命名願います」と書いてあった。
この写真は花巻電鉄花巻温泉駅。花巻電鉄花巻温泉線は、花巻温泉の整備とあわせて温泉開業後の大正14年に開業した。
花巻温泉の創業は大正12年で当初は花巻温泉遊園地として計画された。室内・屋外遊技場、動物園、温泉旅館、貸別荘のほか運動場、遊歩道などが整備された一大レジャー・娯楽施設であった。近在近郊、県内外から家族連れが花巻駅から電車でこの駅を目指した。花巻駅には東北線と岩手軽便鉄道の始発駅があり、花巻電鉄花巻温泉線も東北線の花巻駅に乗り入れており、乗り換えに便利であった。
花巻温泉駅を出たところが旅館や花壇、娯楽施設が並ぶ温泉街で、賢治は花巻農学校教師時代に生徒と一緒に街路に桜を植樹したという。現在も花巻温泉内には桜並木が連なり花見の名所として市民に親しまれている。
台温泉
花巻川口町 宮沢政次郎様 五月十三日夜 台、逢陽館ニテ 賢治拝
大正7年5月13日 宮沢政次郎あて 葉書
本日は晴天にて予定以上に進行仕候 先刻村役場にて明日より三日間案内を出す様依頼し参り候間御心配下さる間敷候。只今は客入極めて少く御座候。原氏訪ね来り候はば多分明晩(十四日夜)迄は当地滞在の旨御話願上候。 先は。
この書簡は賢治が盛岡高等農林学校卒業後、同校の研究生として稗貫郡(賢治の生家花巻川口町を含む郡)の土性調査に従事してときに現地調査の様子を家あてに知らせた葉書の文面である。葉書の差出し地が「台、逢陽館ニテ」とあり、台温泉の旅館逢陽館から出したものと分かる。
大正7年は未だ花巻温泉が開業する前で、台温泉は湯量も多く旅館も大小立ち並んで湯治客で賑わったという。逢陽館は温泉旅館街の中ほどに位置し、比較的大きい方の旅館と思われる。葉書の文面には「只今は客入極めて少く御座候。」とあるが、季節からいってこの時期は農作業が忙しいときで、写真のような客入りではなかったようだ。現在は逢陽館という旅館は無く、建物も建て替えられた。
こちらの写真は昭和初期頃の台温泉。台温泉は写真のように山に囲まれた狭い谷間に、旅館や商店が連なっていた。開湯の歴史は当地方では一番古く、藩政時代は藩主やその身内なども湯治に訪れ大へん賑わったといわれる。湯量も豊富で花巻温泉開業にあたってここから引湯した。
写真は台温泉の奥まったエリアを写しており、逢陽館は温泉街の中ほどに位置していたので、写真の右手前の方にあったと思われる。
大沢温泉
この写真には賢治の父政次郎のメモが記入されている。
「明治三十九年八月九日暁烏敏師ヲ招請シテ大沢ニ於ル我信念講話ノ第九日記念ノ為メ橋畔樹ノ下ニ写ス」
明治30年代から大正にかけて賢治の父政次郎らが中心となって毎年夏、大沢温泉で仏教講習会が開催された。我信念講話あるいは夏期仏教講習会などとも呼んだ。参加者は宮沢家の親類縁者が多く、賢治も従弟らと一緒に小学生のころから参加している。写真の前列左から2番目が賢治、2列右端が妹トシ、後列左から2番目が父政次郎。
この写真は明治41年の同講習会での記念写真。大沢温泉は豊沢川の河岸にある温泉で、川を挟んで両岸に建物があり、橋を架けて行き来していた。参加者が橋の上に集合して撮った。2列3人目が賢治である。
前の写真は、年が違うがこの橋のたもとで撮ったものであろう。
この写真は、温泉の橋を渡った豊沢川の左岸から、本館側の建物を撮っている。いわば旅館の裏庭側を撮ったもので、この写真からは外れているが右側(上流側)に橋が架かっているはずである。ここに写っている建物(増改築はされているとおもうが)の配置は現在でもほぼ同じで、自炊旅館として使用されており当時の面影が窺える。
西鉛温泉
この写真には花巻電鉄の電車と西鉛温泉が写っている。西鉛温泉は、鉛温泉から豊沢川を少し上ったところにあった一軒宿の温泉で、花巻電鉄鉛線の折り返し駅であった。旅館の名前は秀清館といい、当地方では珍しい木造4階建ての堂々とした建物であったが、昭和50年頃に廃業し建物もなくなった。
新校本全集の年譜によると、西鉛温泉と宮沢家は馴染みが深く、賢治の父母は恒例のようにこの温泉に湯治に来ていたようだ。賢治が盛岡高等農林学校を終えて家業を手伝っていたころ、秀清館で療養中の父あてに葉書で連絡を取っていた様子が分かる。妹トシも日本女子大在学中に発熱し東京の病院に長期入院、退院後帰郷し自宅で療養していたが、この温泉で父母と一緒に静養していたことがある。
電車道の脇に温泉への降り口があった。現在は電車線は撤去され、温泉への降り口も使われていない。この道路を進むと豊沢ダム(豊沢湖)に至り、その先はナメトコ山へ繋がる。