岩手軽便鉄道
この写真は岩手軽便鉄道の機関車で、型の違うものが3両連結している。かつて岩手軽便鉄道に勤めていたことがある佐藤寛は、機関車について次のように言っている。
「初期の機関車などは日露戦争当時、満州で使用されていた所謂戦利品という歴史的な骨董品で、客車もボギー車(車両が大型になり曲線走行で支障ないよう車軸が回転できる台車)ではなく、横の扉をいちいち開けて乗降するといったしろもの、腰掛などもスプリングが入っている訳ではないのですから、貨車に乗っているのとちっとも変りがないのです。」
佐藤寛「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)(作品第三六九番)について」四次元、第2巻10号、昭和25(1950)年11月
日露戦争終戦は明治38年、岩手軽便鉄道開設は大正2年。岩手軽便鉄道では、ロシアが満州で使用していた古い型の骨董品的機関車を払い下げてもらった。この機関車が引っ張る軽便鉄道は早く走れないので、乗客は追いかけて飛び乗ったという。のんびりとした情景が眼に浮かぶ。賢治も詩に詠んだ。
三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)
「春と修羅 第二集」
一九二五、七、一九、
こちらは全線の終列車
シグナルもタブレットもあったもんでなく
とび乗りのできないやつは乗せないし
とび降りぐらゐやれないものは
もうどこまででも連れて行って
北極あたりの大避暑市でおろしたり
この写真に見える鉄橋は岩手軽便鉄道の線路で、手前が花巻駅方向、線路の向かい側に建つ建物は岩手軽便鉄道本社である。線路の先、左奥に見える2階建ては稗貫郡役所。この建物の向こう側に賢治が勤めていた稗貫農学校がある。学校の横を線路が走っていて、隣の郡役所の向かいは鳥谷ヶ崎駅である。岩手軽便鉄道は国鉄に移管後、線路が市街地を避けるように切り替えられ、街中を走るこの鉄橋は自動車道路に改修整備された。
こちらが岩手軽便鉄道鳥谷ヶ崎駅。「文語詩稿 一百篇」の「四時」の詩篇は、〈岩手軽鉄の、待合室〉〈農学生〉〈郡役所〉の情景を詠んでいる。鳥谷ヶ崎駅は、線路を挟んで向かい側に稗貫郡役所が建ち、その郡役所の隣に賢治が勤めていた稗貫農学校があった。
四時
「文語詩稿 一百篇」より
時しも岩手軽鉄の、 待合室の古時計、
つまづきながら四時うてば、 助役たばこを吸ひやめぬ。
時しも赭きひのきより、 農学生ら奔せいでて、
雪の紳士のはなづらに、 雪のつぶてをなげにけり。
時しも土手のかなたなる、 郡役所には議員たち、
視察の件を可決して、 はたはたと手をうちにけり。
時しも老いし小使は、 豚にえさかふバケツして、
農学校の窓下を、 足なづみつゝ過ぎしなれ。
午後四時、鳥谷ヶ崎駅の助役はタバコを消し、農学校の生徒は校舎から走って出て来た、郡役所では会議が終わったようだ、そして農学校の小使いは校舎の窓下を過ぎていった、と隣り合った施設の情景を描いたようだ。
花巻電鉄
花巻に電車が走り始めたのは大正4年9月、賢治が盛岡高等農林学校に入学した年である。上流に志戸平温泉、大沢温泉、鉛温泉が連なる豊沢川の中流にある松原に発電所が出来、当初は西公園駅から松原までの営業であった。この写真は花巻電鉄鉛線の大沢温泉駅で、鉄道馬車も写っている。大沢温泉まで電車線路が延びたのは大正12年5月、そこから先は鉄道馬車が引き継いだ。豊沢川の上流にある鉱山の産出物の運搬のほか、鉛温泉へ乗客や物資も運んだという。電車は大正14年11月に終点の西鉛温泉まで開通した。
賢治は、この鉛線の電車を、盛岡高等農林学校時代の地質調査のときや、あるいは家族が西鉛温泉に療養に来るときなど、普段に利用しており、電車沿線や奥の豊沢を舞台とした作品を生んだ。
こちらは花巻電鉄花巻温泉線の電車。花巻温泉は大正12年に開業し、花巻温泉線は大正14年に花巻駅を起点として営業を始めた。西鉛温泉行きの鉛線は鉱石や木炭などの貨物を主として温泉客も搬送したが、花巻温泉線はもっぱら花巻温泉への誘客を目的として整備された。賢治は、依頼されて花巻温泉の花壇造成に関わったときがあり、この電車を利用して通った。
この写真は戦後のものであるが、通りや街の様子が賢治の時代を連想させるものがある。場所は下の図のように花巻電鉄の西公園駅に入る直前で、住宅の軒をかすめるように電車が坂を下ってくる。この坂の上直前に、線路を横切って細い道があり、賢治はこの道を通って家から勤め先の花巻農学校へ通った。家と学校は歩いて通える距離なので電車通勤はしなかったが、ここは馴染みの場所であった。鉛線は西公園駅を過ぎると間もなく車窓の風景が一変し、田園地帯から渓流沿いに走り温泉場へと繋がる。
下の写真は鉛線を走っていた電車。現在保存されている唯一の車両である。ご覧のように車体が狭く、正面が縦に細長い形をしていたため「馬づら電車」と呼ばれた。