賢治生家近くの豊沢町・上町・下町

 上の写真は下の地図のA地点から南方向を見たもの。現在の岩手銀行花巻支店の交差点から南方向の豊沢町を望んでいる。この通りを100m程行った先に賢治の生家がある。写真では遠くて見えないが、このまま南に行けば豊沢橋(下は豊沢川)を渡り、同心町の通りを経て羅須地人協会に至る。
 花巻に電柱が敷設され始めたのが明治45年なので、この写真はそれ以降に撮られたものと思われる。

 この写真は同じA地点から、今度は東方向の下町を望んだもの。ここを起点に反対方向が上町で、写真左に見える標柱が指し示す西国道として鉛温泉を経て奥羽山脈のふところ沢内村へ続く。
 前の写真と同じく角に「和用雑貨」の看板が見える。こちらの写真には電柱が見えないので明治45年以前のものと思われる。この通りの先には北上川に架る朝日橋がある。
 「銀河鉄道の夜」には、「十字になった町のかどを、まがらうとしましたら、向ふの橋へ行く方の雑貨店の前で、」とか「みちは十文字になってその右手の方、通りのはづれにさっきカムパネルラたちのあかりを流しに行った川へかゝった大きな橋のやぐらが夜のそらにぼんやり立ってゐました。」とあり、作品の描写とイメージが重なる。朝日橋は、昭和7年に現在の鉄骨製の橋に架け替えられ、その形はやぐらのように見える。「銀河鉄道の夜」は昭和6年頃に書き直されたといわれており、その頃には鉄骨のやぐらの形は出来ていたと思われる。

 これは、現在市役所や市民体育が建つ花巻城址の大手門があった小高い台地、俯瞰図のB地点から南方向を写したもの。中央付近に見える白っぽい壁の2階建ては精養軒で、その奥のやはり2階建ては銀行の建物である。賢治の生家はこの二つの建物の延長線にうっすらと見える豊沢町にある。

大正9年作成花巻町俯瞰図

朝日橋

 左の写真は北上川に架る木製の旧朝日橋。この当時は北上川と並行して手前側に瀬川が流れていた。そのため土手を挟んで二つの橋が架けれていた(こちらの地図を参照)。現在、瀬川は上流のイギリス海岸附近で北上川に合流するよう流れが切り替えられた。右は昭和7年に建て替えた朝日橋。現在も使用されている。ご覧のようにやぐらの形をしている。

奥州街道

  一〇四二 〔同心町の夜あけがた〕
             一九二七、四、二一、
同心町の夜あけがた
一列の淡い電燈
春めいた浅葱いろしたもやのなかから
ぼんやりけぶる東のそらの
海泡石のこっちの方を
馬をひいてわたくしにならび
町をさしてあるきながら
程吉はまた横眼でみる
わたくしのレアカーのなかの
青い雪菜が原因ならば
それは一種の嫉視であるが
(以下略)

「春と修羅 第三集」

 「春と修羅 第三集」の「一〇四二〔同心町の夜あけがた〕」は、同心町を朝早くレアカーを引いて歩いているときの状況をスケッチしたもので、この写真はその同心町を写したものである。同心町は、賢治の生家がある豊沢町から南に向かって豊沢橋を渡った先にある通りで、この同心町を過ぎたあたりで左(東側)に分かれると、宮沢家の別宅であった羅須地人協会に至る。
 同心町は、藩政時代奥州街道と呼ばれた街道沿いにある通りの町名で、街道の両側に曲がり家風の武家屋敷が15軒づつ並んでいたという。花巻城の勤番、藩堺の警備を担う同心組の武家が住む屋敷街で、明治維新後は役目を失い徐々にその姿を消していった。写真は戦後のものと思われ、道路拡幅のためか片側にしか屋敷が残っていない。最後まで残っていた2軒の建物が市の文化財として保存され、現在羅須地人協会近くに移築公開されている。

 この写真は、旧奥州街道で羅須地人協会に枝分かれする附近のものと思われる。同心町の住宅街が切れたあたりである。かつて奥州街道沿いには、盛岡藩主が参勤交代の道中の慰みにと松並木を植えたといわれ、その名残が見えるという意味で貴重な1点である。

ここは銀河の空間の太陽日本 陸中国の野原である
青い松並 萱の花 古いみちのくの断片を保て

「農民芸術概論綱要」より

 かつて宮沢賢治は「農民芸術概論綱要」でこう主張した。賢治の時代にはまだこのような青い松並みが残っていたと思われ、古いみちのくの情景が断片ながら保存されていたようだ。だが、戦争中の物資不足で街道の松の木も切られたといわれ、戦後も道路の拡幅等で跡かたもなく消えてしまった。