宮沢賢治は、花巻農学校教師時代の1925(大正14)年1月5日から9日まで、三陸海岸を北から釜石までひとりで旅をした。「春と修羅 第二集」にこのときの日付けをもつ一連の詩が収録されており、北三陸にはこれらの一連の詩作品が碑になって建立されている。
 田野畑村には連作「発動機船 一」「発動機船 第二」「発動機船 三」の三つの詩碑が建立され、ここ島越には「発動機船 第二」の碑が建てられた。「発動機船 第二」は「春と修羅 第二集」の「三五一 発動機船〔断片〕」の発展形とされ、その制作日付から北三陸から釜石経由の旅行中の作品とみられる。
 田野畑駅の「発動機船 三」と、ここ島越の二つの碑は同一の制作者で、御影石の碑の上部に賢治が乗船したとされる羅賀丸のブロンズ像を浮かばせている。そして島越の碑は設計士のこだわりで、船が港から出港するイメージで海岸線に対して直角の向きで建てられため、津波の衝撃をかわし奇跡的に流失を免れた。

   発動機船 第二
船長は一人の手下を従へ
手を腰にあて
たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く
さっき一点赤いあかりをふってゐた
その崖上の望楼にむかひ
さながら挑戦の姿勢をとって
つゞけて船のラッパを吹き
たうたうたうたう
月のあかりに鳴らすのは
スタンレーの探検隊に
丘の上から演説した
二人のコンゴー土人のやう
…(以下略)…

  「春と修羅 第二集補遺」
被災を伝える新聞記事

東日本大震災後に、田野畑村の三陸鉄道島越駅にあった賢治詩碑の被災を伝える朝日新聞の記事。記事のリードに「賢治歌碑」とあるが、口語詩「発動機船 第二」の碑のこと。駅舎や線路が流されたにもかかわらず、詩碑は残ったという。

新聞記事で伝えられた被災後の写真