盛岡高等農林学校3年生の夏、賢治は花巻町のおもに経済人有志による〈東海岸視察団〉に加わり4泊5日の予定で釜石・宮古地方の視察に出かけた。最近結ばれた花巻・釜石間の軽便鉄道(ただし、途中の仙人峠は徒歩)を利用し、東海岸の産業を視察しようとする実業家有志36名による団体であった。旅程3日目の1917(大正6)年7月27日、賢治は一行と別れ浄土ヶ浜に向かった。この時に詠んだ短歌がここの碑に刻まれている。
保阪嘉内あて葉書
この視察旅行団は実業家による団体で、まだ学生であった賢治は一行とは馴染めなかったとみえ、盛岡高農友人の保阪嘉内あてにこのときの気持ちを綴った短歌の葉書を送っている。碑に刻まれた短歌はこの葉書から引用している。
〇釜石の夜のそら高み熾熱の鉱炉にふるふ鉄液のうた。
大正6年7月29日 保阪嘉内あて葉書
〇この群(東海岸実業視察団)と釜石山田いまはまた宮古と酒の旅をつゞけぬ。
〇やうやくに湾に入りたる蕩児らの群には暮れの水の明滅。(宮古湾)
〇蕩児らと宮古にきたり夜のそらのいとゞふかみに友をおもへり。(ここにて群をはなる)
〇うるわしの海のビロード昆布らは寂光のはまに敷かれひかりぬ。―(浄土ヶ浜)
〇青山の肩をすべりて夕草の谷にそゝげる青き日光。