宮沢賢治は、花巻農学校教師時代の1925(大正14)年1月5日から9日まで、三陸海岸を北から釜石までひとりで旅をした。「春と修羅 第二集」にこのときの日付けをもつ一連の詩(北三陸紀行詩群)が収録されており、北三陸にはこれらの一連の詩作品が碑になって建立されている。
釜石のJR釜石線陸中大橋駅前には、北三陸紀行詩群の最終「三五八 峠」の碑が建つ。三陸海岸の北端から入り、徒歩や船を利用して2泊3日をかけて釜石に着いた賢治は、8日に釜石に居を構える叔父(母イチの弟磯六、薬局を営む)の家に泊まったと推測される。久方ぶりに叔父家族との一晩を過ごし、翌日釜石軽便鉄道を終点の大橋まで行き、ここから仙人峠を越えて帰花したとおもわれる。「三五八 峠」はこの帰路に峠から見た情景を描いている。ただ、碑が建つ場所からは釜石湾や太平洋は望めない。
三五八 峠
一九二五、一、九、
あんまり眩ゆく山がまはりをうねるので
ここらはまるで何か光機の焦点のやう
蒼穹(あおぞら)ばかり、
いよいよ暗く陥ち込んでゐる
(鉄鉱床のダイナマイトだ
いまのあやしい呟きは!)
冷たい風が、
せはしく西から襲ふので
白樺はみな、
ねぢれた枝を東のそらの海の光へ伸ばし
雪と露岩のかはしい二色の起伏のはてで
二十世紀の太平洋が、
青くなまめきけむってゐる
黒い岬のこっちには
釜石湾の一つぶ華奢なエメラルド
……そこでは叔父のこどもらが
みなすくすくと育ってゐた……
あたらしい風が翔ければ
白樺の木は鋼のやうにりんりん鳴らす
仙人峠
当時は花巻・釜石間は鉄道は直通しておらず、岩手軽便鉄道仙人峠駅(遠野側)と釜石軽便鉄道の陸中大橋駅(釜石側)間は分断され、徒歩での峠越えが余儀なくされていた。峠を越えて大きな荷物は索道を利用して運び、人を運ぶ「のりかご」もあった。