平井賀港

 宮沢賢治は、花巻農学校教師時代の1925(大正14)年1月5日から9日まで、三陸海岸を北から釜石までひとりで旅をした。「春と修羅 第二集」にこのときの日付けをもつ一連の詩が収録されており、北三陸にはこれらの一連の詩作品が碑になって建立されている。
 田野畑村平井賀には、口語詩「発動機船 一」の碑が建つ。この碑は、平井賀で旅館を経営し漁協組合長をしていた畠山栄一が、私費を投じて平井賀漁港内に1996年に建立した。畠山は文学青年で賢治に傾倒していたといわれ、賢治がこの地を旅した際に記したとされる詩「発動機船 一」を碑文とした。「発動機船 一」は、『新校本全集』では「春と修羅 第二集」とは別に「口語詩稿」に収録されているものであるが、「春と修羅 第二集」の「三五一 発動機船〔断片〕」との関連から、このときの旅行中の作品と見られている。
 また、田野畑村ではこの平井賀漁港に続いて、「発動機船 一」の連作「発動機船 第二」の碑を三陸鉄道島越駅に、そして「発動機船 三」の碑を田野畑駅に建立した。

   発動機船 一
うつくしい素足に
長い裳裾をひるがへし
この一月のまっ最中
つめたい瑯玕の浪を踏み
冴え冴えとしてわらひながら
こもごも白い割木をしょって
発動機船の甲板につむ
頬のあかいむすめたち
  ……あの恐ろしいひでりのために
    みのらなかった高原は
    いま一抹のけむりのやうに
    この人たちのうしろにかゝる……
        (以下略)

 平井賀漁港の碑は2011年3月11日の津波で長され、3ヶ月後に砂浜にうずまっているところを発見され、現在は平井賀漁港を見下ろす本家旅館の敷地に設置されている。村ではメモリアルパーク化を検討し、碑の置く場所を決める方針という。

碑が発見されたことを伝える朝日新聞記事
発見後は旅館敷地内に横たわっていたが、現在は玄関前の植え込みに整備されている
本家旅館の玄関前

田野畑駅

 「発動機船 一」の碑が建つ平井賀港の最寄りにある三陸鉄道田野畑駅には、連作のひとつ「発動機船 三」の碑が建立された。田野畑駅は平井賀港からは奥まった高台にあり、津波の被害からは免れた。
 田野畑駅と島越駅の二つの碑を制作したのは同じ建築設計士で、御影石の碑の上部に賢治が乗船したとされる羅賀丸のブロンズ像を浮かばせているデザインが目を引く。なお、賢治が乗船した船や港など旅行の行程は不詳で、確定したことは判っていない。

三陸鉄道田野畑駅に建つ賢治詩碑

   発動機船 三
……(中略)……
……ぼんやりけぶる十字航燈……
あゝ冴えわたる星座や水や
また寒冷な陸風や
もう測候所の信号燈や
町のうしろの低い丘丘も見えてきた
   羅賀で乗ったその外套を遁がすなよ

田野畑駅舎
駅前から平井賀港方向を望む わずかに海が見える