人首(「ひとかべ」と読む)は江刺(現奥州市)の東北に位置し、ここを抜けて五輪峠を越え、遠野へ繋がる街道沿いにある小さな一本町である。賢治は、高等農林時代に江刺郡地質調査の折り、この町の宿に宿泊し、友人保阪嘉内宛にここの郵便局から葉書を出している。葉書には上伊手剣舞連の歌4首が記され、前日夜に剣舞を見たとおもわれる。短篇「泉ある家」「十六日」は種山ヶ原周辺が舞台とみられ、このときの地質調査に取材したものか。

賢治が泊まった宿と郵便局の位置
宿泊した菊慶旅館前から見た一本町 右側中程に郵便局跡
旅館跡に建つ説明版

 また「春と修羅 第二集」に1924(大正13)年3月24日と25日の日付をもつ詩篇「五輪峠」「丘陵地過ぎる」「人首町」の連作があり、賢治はこのとき歩いて岩手軽便鉄道鱒沢駅から五輪峠を経て、人首へ向かったと推定される。

   一八 人首町
雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
あさましいまで光ってゐる
そのうしろにはのっそり白い五輪峠
五輪峠のいただゞきで
鉛の雲が湧きまた翔け
南につゞく種山ヶ原のなだらは
渦巻くひかりの霧でいっぱい
つめたい風の谷間から
ひばりの声も聞えてくるし
やどり木のまりには艸いろのもあって
その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある

町の高台に建つ「人首町」の詩碑