種山ヶ原は北上山地のまん中に位置し、標高871mの物見山の裾に広がる高原である。高原の野原を利用して、沢山の馬が春から8月末まで放牧されると、賢治は記している。年譜によると、賢治は高等農林学校3年の1917(大正6)年8月に、同級生らと一緒にこの辺一帯の江差郡地質調査のために訪れている。童話「種山ヶ原」や戯曲「種山ヶ原の夜」では、のびやかに広がる草原や、東の海側と西の山側からの風と湿気で雨や霧が発生する様子が生き生きと描かれている。

種山ヶ原の立石からからの眺め ここには賢治の「牧歌」の歌碑が建っている

  種山ヶ原といふのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩じゃもんがんや、硬い橄欖岩かんらんがんからできています。
 高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五六軒づつの部落があります。
 春になると、北上の河谷かこくのあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此の部落の人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまふのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯れはじめ水霜が下りるのです。
 放牧される四月よつきの間も、半分ぐらいまでは原は霧や雲にとざされます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気しっきのお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした。それですから、北上川の岸からこの高原の方へ行く旅人は、高原に近づくに従って、だんだんあちこちに雷神の碑をみるやうになります。その旅人と云っても、馬を扱う人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした。

童話「種山ヶ原」より
中腹にあるバンガローサイトから物見山を望む 山頂には気象レーダーの建物が見える

「牧歌」歌碑

立石にある賢治の歌碑
ここは山頂に向かう道路から10分ほど歩いたところ


 賢治は北上山系ののびやかな高原の情景がお気に入りだったようで、豊沢の山(奥羽山系)と種山高原(北上山系)とを較べて次のようにいう。この手紙は稗貫郡土性調査のため鉛温泉に宿泊した賢治から、高農旧友にあてたもの。

1918(大正)7年4月18日付、工藤又治あて書簡

 私は一昨日崖の雪を滑って膝の具合が変なので今日は天気の良いのにこんな所に居ます。少しばかりこの間の山の模様などを書きます。
 江刺の山は実に明るくゆっくりしていたではありませんか。私は正法寺の明方、伊手の薄月夜の赤垂衣、岩谷堂の青い仮面、又、阿原山や人首の御医者さんなどを思います。こちらではさっぱりいけません。山は無暗にこせついて意地悪く仲々十町位の所で道がなかったら二時間もかかります。それだから私の方も無茶に石を叩いたり、歩きながら山の悪口を言ったりします。