宮沢賢治は1921(大正10)年12月に稗貫郡立稗貫農学校に教師として任用されたが、在職中の1923(大正12)年4月、稗貫農学校は郡立から県立に移管され、岩手県立花巻農学校と校名を変え、新校舎に移転した。しかし、県立移管時は修業年限2年制の乙種農学校で、3年制の甲種への昇格は1926(大正15年)4月からのこと。賢治はこの年の3月をもって依願退職している。在職期間は稗貫農学校を含めて4年4ヶ月であった。
 退職の理由は不明であるが、交友のある人たちには「来年は本統の百姓になる」と手紙などでその意志を伝えており、その通りに退職と同時に宮沢家別宅で独居自炊の農耕生活を始めた。
 

農学校跡 現在はぎんどろ公園として整備
花巻農学校校舎 正門

花巻農学校上空からの空撮 1943年の撮影であるが創設時の周囲の状況を推測できる

「春と修羅 第二集」序

「春と修羅 第二集」序

     序
  この一巻は
  わたくしが岩手県花巻の
  農学校につとめて居りました四年のうちの
  終りの二年の手記から集めたものでございます
  この四ヶ年はわたくしにとって
  じつに愉快な明るいものでありました
  ⋯⋯

 
 「春と修羅 第二集」序はこのような書き出しで始まる。教師時代の賢治は活発に創作を続け、先ず心象スケッチ『春と修羅』を出版し、続けて童話集『注文の多い料理店』も上梓、さらに「春と修羅 第二集」も実現しなかったが上記のように出版に向けて序文を書くなど諸般にわたって準備をしていた。
 学校では一日数時間の授業と実習をこなし、生徒と共に演劇などの文化活動にも打ち込み、レコードや浮世絵を収集しはじめるなど、農学校教師時代は「じつに愉快な明るいもの」であった。

田園劇

 教師時代の「じつに愉快な明るいもの」の一つの例として、生徒と共に制作、上演した田園劇があげられる。ここに示した田園劇試演招待券は、賢治の自筆、謄写版印刷による手作りで、大正13年8月10日と翌11日の2日間にわたって花巻農学校講堂で上演された際に配られたもの。劇は賢治自作の「飢餓陣営」「植物医師」「ポランの広場」「種山ヶ原の夜」の4本立てで、岩手日報でも事前予告と当日取材による記事が掲載され、一般に公開した。脚本・演出は賢治で、衣裳、小道具、大道具など劇に要した一切の費用も賢治の自費であった。上演は評判が良く大成功に終わり、終了後舞台道具を校庭にもちだし、火をつけ、生徒とともども狂喜乱舞したと『年譜』に伝えられる。