賢治が勤める稗貫農学校の隣に岩手県立花巻高等女学校があった。明治44(1911)年に県立では2番目の高等女学校として創立された。この女学校の音楽担任教師に藤原嘉藤治がおり、勤め先が隣同士、自然と交流が始まり終生気が置けない友人として付き合った。また、賢治の妹トシは第2回卒業生で、日本女子大学へ進学、卒業後の大正9年(1920)9月から1年間母校で教鞭をとった。トシが病気療養のため教壇を去った後の大正10年12月、兄賢治は稗貫農学校の教壇に立つこととなる。
 当時の地図に学校の位置(⑦)を示しましので、こちらの地図をご参照ください。

花巻高等女学校跡
今の建物は花巻市生涯学園都市会館(まなび学園)
花巻高等女学校校舎
女学校校舎正面 校舎前に見える柳の木は今も残っている

妹トシ

女学校生徒時代 右端がトシ
教師時代 左がトシ

 賢治の妹トシはこの女学校の第2回卒業生でもあった。女学校から東京の日本女子大学校に進んだ。卒業の年に肺炎で長期欠席したが、成績優秀につき卒業証書を授与された。しばらく家で養生していたが、小康を得て母校のこの学校で教鞭を執った。しかし病気全快に至らず。1年を経て療養のため止む無く退職した。

藤原嘉藤治

 賢治と藤原嘉藤治との交流は、勤務先の学校が隣り合っていたので、宿直の際にはお互いに訪ねていくなど自然と親密な付き合いが始まった。音楽はもとより、思想、人生、教育、時事等、多方面にわたって深い交流をもつようになった。とくに嘉藤治の得意な音楽面での交流は、一緒にレコードコンサートを開いたり、楽器を演奏したりと盛んに行われた。宮沢賢治記念館に展示しているセロは、たまたま賢治が嘉藤治の演奏会のために貸し与えたもので、返却されず藤原のもとにあったため、賢治生家の焼失からまぬがれたものである。

藤原嘉藤治
賢治のセロ