岩手軽便鉄道は花巻から釜石を結ぶ東北線の支線として、1915(大正4)年に仙人峠まで開通した(その先の大橋までの峠区間は徒歩)。1936(昭和11)年に現JR釜石線として国有化された。岩手軽便鉄道花巻駅(軽鉄花巻駅)は、千人峠経由釜石方面の始発駅であり、また、花巻電鉄の鉛温泉行もここから出ていた。一方、軽鉄花巻駅に並行して東北線の花巻駅(省線花巻駅)が隣接してあり、こちらからは東北線のほか花巻温泉方面へ向かう電車が出ていた。花巻駅は「シグナルとシグナレス」「岩手軽便鉄道の一月」など軽便鉄道に関連する作品も多い。
 当時の地図に位置(10)を示したのでこちらの地図をご参照ください。

岩手軽便鉄道花巻駅跡
岩手軽便鉄道花巻駅

岩手軽便鉄道

三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)
          一九二五、七、一九
⋯⋯
こちらは全線の終列車
シグナルもタブレットもあったもんでなく
とび乗りのできないやつは乗せないし
とび降りぐらいやれないものは
もうどこまででも連れて行って
北極あたりの大避暑市でおろしたり
⋯⋯

「春と修羅 第二集」
岩手軽便鉄道
北上川鉄橋を渡る岩手軽便鉄道
宮沢賢治記念館の建つ胡四王山の麓に位置する

 岩手軽便鉄道は、東北線花巻駅と三陸沿岸の釜石を結ぶ民営鉄道として発足した。北上山地を挟んで、岩手軽便鉄道は内陸側の仙人峠が終着駅。沿岸側は鉱山の大橋駅から釜石までが釜石軽便鉄道。この間仙人峠駅から大橋駅までは、旅客は徒歩、貨物は索条輸送した。1913(大正2)年花巻・土沢間から開業し、1915(大正4)年11月23日に花巻・仙人峠駅が全通した。1936(昭和11)年に現JR釜石線として国有化され、軌道も改軌されて花巻・釜石間が全通したのは1950(昭和25)10月であった。
 賢治は大正6年の学生時分に、沿岸地方の産業の状況の視察を目的とした花巻の実業家有志の団体(東海岸実業視察団)に加わり、この軽便鉄道を利用して釜石、宮古を訪れている。その後も、鉄道好きの賢治は頻繁に乗車したものとおもわれ、「冬と銀河ステーション」「三六九 岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」など沿線に関連する作品が多く残されている。

岩手軽便鉄道花巻駅2階精養軒

 賢治と友人の藤原嘉藤治により音楽ファンの集まりであるレコードコンサートが度々開かれていた。会場には岩手軽便鉄道駅上の精養軒支店も利用されていて、大正11に精養軒でのレコードコンサートに出た木村たまは次のようにいっている。

「八月の夏休みで、帰省していた学生なども来て、二十人位は集まりました。賢治先生は、コンサートの主催者で、レコードも蓄音機もみんな御自分の物を持ってお出でのようでした。ああいう時の先生は、何もかも一切自弁で、そして始終集まった人たちに退屈をさせないという様な思いやりを持っておいでの様でした。時々例の、先生独特のユーモラスで静かな会場に爆笑の花を咲かせたり、レコードの変わる度ごとに大変理解するに役立つ説明を加えらりたり、退屈どころの騒ぎか、愉快な楽しい一夜の会はどんなに皆の心をなごやかにしたか知れません。」

『新校本全集』年譜より
精養軒軽便鉄道花巻駅支店の内部の様子