心象スケッチ『春と修羅』は、発行所は東京の関根書店とういう名義だが、印刷その他一切の作業を花巻のここにあった吉田印刷所で行い実質賢治の自費出版であった。吉田印刷は少し遠回りになるが賢治の勤める花巻農学校と自宅の中ほどにあり、賢治は毎日のようにここに立寄り印刷の指示や手伝いをして、待望の出版を果たした。
 下の写真にある現地の説明版には「銀河鉄道の夜」第2章「活版所」のモデルとして、賢治の通った花城小学校からの道順を示しているが、地理にアドバンテージのある地元ならではの一つの仮説である。また、この説明板では印刷所を「大正活版所」と呼んでいるが、宮沢清六氏の著書『兄のトランク』でもその名称で呼んでいるのでこれが出典とおもわれる。当時の通称だったのかもしれない。
 当時の地図に位置(⑨)を示したのでこちらの地図をご参照ください。

吉田印刷所跡 現在は菓子店に建て替えられた

心象スケッチ『春と修羅』

 吉田印刷は詩集などの印刷は馴れておらず、賢治は始めから印刷の組版と同じ体裁で原稿を清書し印刷所に渡している。しかし、活字が揃わず、盛岡の山口活版所(吉田印刷はこの花巻出張所扱い)に取りに行ったり、毎日のように手伝いに通ったといわれる。関徳弥著『賢治随文』に「賢治は毎日印刷所へ出向いて校正したり、さまざまの手伝いをして(中略)校正刷を持って、私の店へ立ち寄り毎日毎日見せてくださいました」という。

ノンブルや活字指定の印がついた『春と修羅』印刷用原稿の一例

 表紙の布は賢治が関徳弥に依頼、関は要望の青黒いザラザラの布を探したがなく、商用で大阪に行った際、友人にたのんで似たような手触りの布を手に入れたが色は麻色であった。背文字は関が師事していた歌人尾山篤二郎に関から依頼し、マッチの軸で書いてもらったという。背文字は「心象スケッチ」とあるべきを「詩集」と書かれてしまったといい、後の賢治書簡では「詩集」の文字をブロンズの粉で消したという。このブロンズの粉で消したという現物はずうっと確認できないでいが、2014年に発見されたことが報告された。