ぎんどろ公園は、かつて宮沢賢治が教師を務めた花巻農学校があったところ。1969(昭和44)年に農学校が移転したので、跡地を賢治ゆかりの地として公園に整備した。ぎんどろはヤナギ科の木で、賢治在職中に農学校がここに新築された際、賢治等教職員が植えたといわれ、今でも大きく繁っている。賢治は教師を務めた4年4カ月のうち、後半3年間はここで生徒たちと愉快な日々をおくった。

「早春」詩碑

 花巻農学校は戦後の学制改革(いわゆる6・3・3制)により、昭和24年4月から普通科が増設され男女共学の総合高校となり、校名も岩手県立花城高等学校と改まった。これを機に生徒会が発足し、記念に宮沢賢治の碑を建立したいと企画し、作品から碑文を選び翌年3月に碑を建立した。(なお、昭和27年4月には再び農学の単独実業高校となり、校名ももとの岩手県立花巻農業高等学校に改名された。)

花巻農学校移転前の碑
碑文

 碑文は文語詩「早春」(「文語詩稿 一百篇」所収)の後半部分で、草稿の裏に毛筆で自書されていたものである。
 碑文選定にあたって学校(生徒会)では、「雨ニモマケズ」詩碑を揮毫した高村光太郎(当時花巻郊外太田山荘に独居中)に相談したところ賢治の肉筆のものからとの示唆があり、学校ではこれを受けてさらに宮沢清六に碑文の選定を依頼した。宮沢清六は著書『兄のトランク』で「この度碑に刻まれました〝早春定稿〟の後半は、文語詩草稿の裏へ毛筆で練習のように書かれていましたもので、この原稿を約二十五倍に引き伸ばして彫っていただいたのであります。」と記している。

   早 春
黒雲峡を乱れ飛び              技師ら亜炭の火に寄りぬ
げにもひとびと崇むるは    青き Gossan 銅の脈
わが索むるはまことのことば
雨の中なる真言なり

(「文語詩 一百篇」より)
これも農学校移転前の写真

「風の又三郎」群像碑

 「風の又三郎」群像碑は、ぎんどろ公園の整備に合わせて計画された。宮沢家からの寄付をもとに、これも宮沢清六の発案・企画により若手の彫刻家(安倍和子・金子健二・栗原俊明・寺田栄)に制作を依頼し、昭和56年3月に建立した。制作者のひとり栗原俊明氏は、のちに宮沢賢治記念館前に建立された「よだかの星」彫刻碑も手掛けた。

「高原」詩碑

 花巻では〈「雨ニモマケズ」詩碑〉〈「早春」詩碑〉に次いで3番目の碑で1961(昭和36)年に建立された。建立者は賢治の農学校教師時代の教え子照井謹二郎が主宰する花巻賢治子供の会で、花巻市立花巻図書館の「宮澤賢治文庫」の蔵書が3千冊に達した記念に図書館屋外に建てたものである。碑が建立された当時は、花巻図書館は城内の花巻市役所に隣接してあったが、昭和48年に現在地に移転新築され、この碑も移転した。

  高 原
海だべがど おら おもたれば
やっぱり光る山だたぢやい
ホウ
髪毛(かみけ) 風吹けば
鹿(しし)踊りだぢやい

『春と修羅』より