この碑は「桜地人館」という施設の敷地内に建っている。館の創設者佐藤隆房が1975(昭和50)年9月に建立した。

桜地人館

 桜地人館とは、あの雨ニモマケズ詩碑の入り口の所にある私設展示館である。「桜」は地名、賢治在世時代は下根子字桜という地名であり(現在は桜町)、「地人」は羅須地人協会の地人である。何を展示しているかというと、主に宮沢賢治、高村光太郎と画家萬鉄五郎の資料や作品である。
 館を創設した佐藤隆房は、賢治が勤めていた稗貫農学校(移転して県立農学校となる前の校舎)の跡地に病院を開設、経営した人で、病臥中の賢治の診察と治療にもあたった。賢治没後、雨ニモマケズ詩碑建立に際して建設委員長を務めた人でもある。
 また、宮沢賢治との縁で終戦の年に花巻に疎開した高村光太郎は、宮沢家の別棟に寓居していたが、花巻空襲で宮沢家が焼失すると佐藤隆房家に移り、そののち、佐藤の斡旋で花巻郊外太田に山荘を建て独居生活を始めた。このような賢治、光太郎との交友関係があり、佐藤は所有する資料や作品を公開する展示施設を創設した。

桜地人館

碑文

 碑文は文語詩「母」(「文語詩稿 一百篇」所収)である。賢治が最晩年、自身の創作を振り返って「なってもだめでも、これがあるもや」と妹に語ったといわれる文語詩篇の一篇で、読者から評価の高い作品の一つである。

   母
雪袴黒くうがちし うなゐの子瓜食(は)みくれば
風澄めるよもの山はに うづまくや秋のしらくも
その身こそ瓜も欲りせん 齢弱(としわか)き母にしあれば
手すさびに紅き萱穂を つみつどへ野をよぎるなれ

(「文語詩稿 一百篇」より)