かつてここには巨きな杉が地蔵堂の前に聳えるように立っていて、宮沢賢治はこの巨杉を見て詩を書いた。この地蔵堂には地蔵菩薩と毘沙門天を安置しており、延命寺というお寺にある。延命寺は賢治の時代は天台宗寺門派に属していた寺であったが、昭和21年に修験宗になったという。
境内に地蔵尊の由緒を刻んだ古碑があり、それによると延命寺が養老2(718)年に開基され、天平元(729)年に延命子安地蔵菩薩と護世天(毘沙門天)ともう一柱の三柱の神が顕れ、子孫繁栄と安産を誓いこの地に杉の杖三本を挿した。それが繁って巨杉となり、のち子持ち杉とよばれるようになったという。この巨杉の一本が昭和54年の台風で倒れ、それを機に安全のため数本を残して切り倒し、広い空間を作って参詣者が立ち寄りやすくした。現在は地蔵堂の隣に堂宇を建て、御神木の切り株および子安地蔵尊の縁起にちなむ胎内くぐりとして古木の幹の一部をくり抜いて安置してある。
賢治生誕百年の1996(平成8)年9月、賢治がここを舞台に作品を残したことを記念し、地蔵堂を護持する関係者による委員会の名でこの碑が建立された。
碑文
碑文は「春と修羅 第二集」の「五二〇〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」の前半部で、詩が書かれた日付(一九二五、四、一八、)によれば、賢治は農学校教師時代である。ここ地蔵堂は農学校からほど近い所にあり、巨きな杉は学校付近からも目立って見えていたことだろう。
詩に登場する「寛」は3学年に在籍していたこの寺の子息・桜羽場(のち安藤)寛である。桜羽場は学校の授業以外でも、賢治が引率する岩手山登山や台川渓谷の探索、市内太田の清水寺への夜行参詣にも同行している。とくに、清水寺へ散策した際の夜景は「銀河鉄道の夜」の汽車が走っていく場景に間違いない、と花巻農学校90周年記念誌で思い出を語っている。
なお、この詩は下書稿も含めて原稿が複数残されており、最終形(定稿)では無題であるが、石碑には下書稿にある題名「巨杉」を採用して付してある。
五二〇
「春と修羅 第二集」所収
一九二五、四、一八、
地蔵堂の五本の巨杉が
まばゆい春の空気の海に
もくもくもくもく盛りあがるのは
古い怪性の青唐獅子の一族が
ここで誰かの呪文を食って
仏法守護を命ぜられたといふかたち
……地獄のまっ黒けの花椰菜め!
そらをひっかく鉄の箒め!……
地蔵堂のこっちに続き
さくらもしだれの柳も匝る
風にひなびた天台寺は
悧発で純な三年生の寛の家
寛がいまより小さなとき
鉛いろした障子だの
鐘のかたちの飾り窓
そこらあたりで遊んでゐて
あの青ぐろい巨きなものを
はっきり樹だとおもったらうか