「雨ニモマケズ」詩碑が建つ小公園に至る市道の遊歩道に賢治の碑が連なって置かれている。設置したのは花南地区コミュニティ会議という自治組織。花巻市では「住民の参画と協同」によるまちづくりを目指し、2007(平成19)年にほぼ小学校学区単位に住民の自主運営によるコミュニティ会議を組織した。各コミュニティ会議は市からの交付金を原資に、地域の課題解決のため、あるいは地域の特性を活かすための事業を競って行っている。

 「雨ニモマケズ」詩碑がある地区は旧花巻市の南方面に位置することから花南地区とよばれ、ここのコミュニティ会議では全国から詩碑を訪れる賢治ファンのため、詩碑周辺の環境整備に設立当初から順次取り組んできた。2011(平成23)年度から3年間は、詩碑に至る200m程の歩道に賢治の詩を刻んだ石碑を並べ、賢治文学散歩道と名付けた。

「告別」

「告別」が刻まれた賢治文学散歩道の碑 2012(平成24)年3月設置

 散歩道の入り口に最初に置かれた碑。碑文は「春と修羅 第二集」所収の「三八四 告別」の一節。この詩に付された日付は1925(大正14)年10月25日で、賢治は花巻農学校の教師時代。「おれは四月はもう学校に居ないのだ」と書いたとおり、翌年3月に退職し4月から羅須地人協会の設立を目指し独居生活を始めた。その場所がいま「雨ニモマケズ」詩碑が建つところだ。この詩は、賢治が教師を辞することを決めていたとき、教え子に向けて書いたものといわれ、若い世代に対する期待と鼓舞、そして自身の新しい生活への決意を記した。
 賢治文学散歩道は、この「告別」における決意に始まり、賢治の羅須地人協会時代の苦闘を順次辿っていく道筋でもある。

  三八四  告別
           一九二五、一〇、二五、
おまへのバスの三連音が
どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管《くゎん》とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう

そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

「春と修羅 第二集」より

「春」

「春」詩碑 2012(平成24)年3月設置

 散歩道の2番目の碑は「春と修羅 第三集」所収の詩「七〇九 春」。賢治が「本統の百姓」になるといって独居を始めたのが1926(大正15)年の4月から。この詩はそれから間もなくの5月2日の日付で「汚い掌を、おれはこれからもつことになる」と書いた。昨日までのサラリーマン生活を捨て、周りの農家と同じように土にまみれた生活をこれから始めようとしたときの感慨だろう。実際、賢治はそれから「下ノ畑」で土にまみれて農作業に汗するが、厳しい生活の農家の現実をも目の当たりにした。賢治はここでそれから2年余り、羅須地人協会活動による社会実践、ひいては農村社会の向上を目指して格闘の日々を送ることになる。

  七〇九  春
          一九二六、五、二、
陽が照って鳥が啼き
あちこちの楢の林も、
けむるとき
ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、
おれはこれからもつことになる

「春と修羅 第三集」より

「〔あすこの田はねえ〕」

「あすこの田はねえ」詩碑 2013(平成25)年3月設置

 散歩道3番目の碑は前と同じく「春と修羅 第三集」所収の詩「一〇八二 〔あすこの田はねえ〕」。詩が書かれたのは1927(昭和2)年7月10日、賢治が独居を始めてから2年目の夏である。前年に羅須地人協会を立ち上げ、講義や音楽活動など会員と活発な交流をもつほか、農家への稲作に対する指導もしていた。昭和2年の夏は天候不順で凶作が心配されており、賢治は測候所へ予報を問い合わせたり、冷夏対策に農家を駆け回ったりしていた。そんな中、この詩では教え子とおもわれる子が、賢治の指導を受けて立派に成長している様子が窺われその喜びがうたわれている。

  一〇八二 〔あすこの田はねえ〕
            一九二七、七、一〇、
あすこの田はねえ
あの種類では窒素があんまり多過ぎるから
もうきっぱりと灌水《みづ》を切ってね
三番除草はしないんだ
  ……一しんに畔を走って来て
    青田のなかに汗拭くその子……
燐酸がまだ残ってゐない?
みんな使った?
それではもしもこの天候が
これから五日続いたら
あの枝垂れ葉をねえ
斯ういふ風な枝垂れ葉をねえ
むしってとってしまふんだ
  ……せはしくうなづき汗拭くその子
    冬講習に来たときは
    一年はたらいたあととは云へ
    まだかゞやかな苹果のわらひをもってゐた
    いまはもう日と汗に焼け
    幾夜の不眠にやつれてゐる……
それからいゝかい
今月末にあの稲が
君の胸より延びたらねえ
ちゃうどシャッツの上のぼたんを定規にしてねえ
葉尖を刈ってしまふんだ
  ……汗だけでない
    泪も拭いてゐるんだな……
君が自分でかんがへた
あの田もすっかり見て来たよ
陸羽一三二号のはうね
あれはずゐぶん上手に行った
肥えも少しもむらがないし
いかにも強く育ってゐる
硫安だってきみが自分で播いたらう
みんながいろいろ云ふだらうが
あっちは少しも心配ない
反当三石二斗なら
もうきまったと云っていゝ
しっかりやるんだよ
これからの本当の勉強はねえ
テニスをしながら商売の先生から
義理で教はることでないんだ
きみのやうにさ
吹雪やわづかの仕事のひまで
泣きながら
からだに刻んで行く勉強が
まもなくぐんぐん強い芽を噴いて
どこまでのびるかわからない
それがこれからのあたらしい学問のはじまりなんだ
ではさやうなら
  ……雲からも風からも
    透明な力が
    そのこどもに
    うつれ……

「春と修羅 第三集」より

「饗宴」

「饗宴」詩碑 2014(平成26)年3月設置

 散歩道の4つ目で最後の碑は、これも「春と修羅 第三集」所収の詩「七三五 饗宴」。地域住民の一員として道路普請の作業に参加した賢治が、作業終了後の慰労会に出席したときの様子を描いている。労力の代わりに酒代を出せば済むところを、賢治は地元住民に溶け込もうとして敢えて参加したのかもしれない。言い換えれば、町の資産家の長男である賢治は、周りの農家の目から見れば変わり者であり、反感の目で見られていると感じていたようで、何とかその誤解を解消しようとしていた。だから皆と一緒になって賦役に出でみたのだが、やはり農村では何かといえば酒を飲み、直線的な物言いの農民にどこか馴染めないでいるようだ。ギャップは深い。

  七三五  饗宴
            一九二六、九、三、
酸っぱい胡瓜をぽくぽく噛んで
みんなは酒を飲んでゐる
 ……土橋は曇りの午前にできて
   いまうら青い榾のけむりは
   稲いちめんに這ひかゝり
   そのせきぶちの杉や楢には
   雨がどしゃどしゃ注いでゐる……
みんなは地主や賦役に出ない人たちから
集めた酒を飲んでゐる
 ……われにもあらず
   ぼんやり稲の種類を云ふ
   こゝは天山北路であるか……
さっき十ぺん
あの赤砂利をかつがせられた
顔のむくんだ弱さうな子が
みんなのうしろの板の間で
座って素麺《むぎ》をたべてゐる
  (紫雲英《ハナコ》植れば米とれるてが
   藁ばりとったて間に合ぁなぢゃ)
こどもはむぎを食ふのをやめて
ちらっとこっちをぬすみみる

「春と修羅 第三集」より

 「春と修羅 第三集」は、賢治が本統の百姓になるとして独居生活を始めた時から書き始め、羅須地人協会を立ち上げ、病のためにその活動を終了するまでの2年余の作品が収められている。豊かな農村社会の実現に向けて、農民(地人)芸術による実践活動を行った時代の労働の喜びや苦闘の記録が読者に提示されている。賢治文学散歩道に並べられている詩碑群はそれを呼び起こすように並んでいる。